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プロフィール

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公明党常任顧問 参議院議員山口那津男(やまぐちなつお)

生年月日
1952年(昭和27年)7月12日
出身
茨城県ひたちなか市生まれ
略歴
1978年 東京大学法学部卒業
1982年 弁護士登録(東京弁護士会)
1990年 衆議院初当選(当選2回)
2001年 参議院初当選(当選4回)
以来、党代表、党参院国会対策委員長、同政務調査会長、防衛政務次官、参院行政監視委員長など歴任。
現在
党常任顧問、同東京都本部顧問
経歴を詳しく見る
家族
妻と1女2男
趣味
読書、音楽鑑賞
食べ物
嫌いな食べ物はない(ナットウは欠かせない!)
モットー
至誠一貫(真心を一筋に貫き通す)
体格
身長176cm、体重75kg、血液型A型
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山口なつお
物語History

学生時代

1959年 小学校
両親の背中

日立市にできた天気相談所初代所長を務めていた父・秀男は、作家・新田次郎氏の小説「ある町の高い煙突」の題材にもなった公害問題の解決に全力を尽くしていました。一方、小学校の教員をしていた母・政子は結婚を機に専業主婦となったのち、再び教職に戻ります。私は両親の背中から、人のために尽くす姿勢を学んだのです。

私の父・秀男は、1922年(大正11年)千葉県の富津市生まれ。気象庁の技術官を経て、私が物心ついた時には、茨城県日立市にできた天気相談所の初代所長として、天気予報をはじめ、環境保全の仕事をしていました。

鉱工業が盛んな日立市と、公害問題は切っても切り離せない関係でした。作家の新田次郎氏の小説『ある町の高い煙突』の題材にもなりましたが、明治・大正の時代から、鉱山から出る煙害に住民は悩まされていました。小説は、鉱山側と住民側の誠実な交渉で、一応の解決をみたという夢のような話ですが、実はこの話を持ち込んだのが、私の父でした。新田氏とは、気象庁時代の同僚だったのです。いずれにしても、父は公害問題の解決に全力を尽くしていました。

セメント工場がはき出す粉塵が、周辺住民の屋根に積もり、ツララのようにこびりつくような事態になった時も、父は市を代表して防止策を企業に訴えるだけでなく、住民のために補償の斡旋も行っていたのです。

よく夜を徹して働くこともありましたが、使命感に燃えているからか、常に元気いっぱい。立場の弱い住民の側に立ち、企業と戦う父の姿を、今も尊敬し、誇りに思っています。

一方、母・政子は、1926年(大正15年)生まれ。父と同じ富津市の出身。小学校の教員をしていましたが、結婚を機に専業主婦に。どんな時でも、一人の人格として対等に話をしてくれる母でした。

私と妹が大きくなった時に、再び教職に戻り、病院内にある院内学級の担任になったことがありました。院内学級というのは、例えば重い病気で入院し、一般の学校に通うことが出来ない子どもたちに教えるクラスです。

他者への思いが深い母らしく、そこで教えることにやりがいを感じていたようです。家に帰ってきては、生きることに敏感な児童たちがうれしそうに学ぶ姿を語る母の表情を、今でも鮮明に覚えています。

教育の重要性、そして、どんな子どもにも無限の可能性が秘められていることを、母の姿から学んだような気がします。

「他者を思いやる心」、また「人のために尽くすこと」を、両親の背中から、幼心に学んだと思います。

1965年 中学校
トロンボーンとの出会い

ブラスバンド部に情熱を傾けた中学3年間でした。数ある楽器の中でトロンボーンを選んだのは、広い音域から出る和音の美しいハーモニーとトランペットに勝るとも劣らない強音に魅せられたからです。今でも、あの小さなマウス・ピースは、自宅で大切に保管しています。

1968年 高校
水戸一高の「至誠一貫」

「真心を一筋に貫き通す」というこの言葉は、進学した水戸一高の校訓でした。良くも悪くも謹厳でイデオロギッシュな土地柄の水戸で、強い精神性を学び、100年以上も続いてきた「至誠一貫」の伝統と精神を、生涯の座右の銘にしています。

「夜のピクニック」

水戸一高の伝統行事に「歩く会」というのがあります。70キロの道のりを、白いジャージの上に学ランを着て、学生帽をかぶった集団が列をなし、夜を徹して歩くのです。卒業生でもある作家の恩田陸さんの小説「夜のピクニック」のモデルとなり、映画化もされました。

1972年 大学
弁護士を目指して

大学を志望するにあたり、新しい時代の建設には、法律への深い洞察と知識が必要だということに気づき、東京大学法学部に入学。社会の不正をただそうと思い、弁護士を目指して司法試験の勉強を始めました。26歳で合格。大阪で2年間の司法修習を経て、弁護士への一歩を踏み出します。

弁護士時代

1982年 弁護士
DV被害者を救う

東京にある「北・木村法律税務事務所」でキャリアはスタートします。1982年(昭和57年)4月、まだ駆け出しの頃、ある離婚裁判を手がけました。依頼人は東京出身の女性。相手は栃木のある市役所に勤める実直そうな公務員。男の子も1人いて、はた目には平凡で幸せそうな家族でした。ところが・・・

夫は一度お酒が入ると見境がつかないほどの酒乱。妻に対して連日、殴る蹴るの暴行をはたらいていました。今で言う、ドメスティック・バイオレンス(DV)です。何度も逃げ出しては捕まり、そのたびに、暴力はエスカレートしていきました。ついに、彼女は着の身着のままで東京に逃げ帰ってきました。

私のところに相談に来た時、彼女は、夫がすぐそこまで来ているのではないかという恐怖から、おびえていました。弁護士の本来の仕事ではないのですが、まずは彼女の生活全般にわたるカウンセリングが必要と考えた私は、区役所に事情を説明し、母子寮に避難させました。結果的に、この一手が功を奏しました。夫は頻繁に彼女の実家や、その周辺を探し回っていたようです。

離婚調停に入り、どうしても離婚するという妻と、逆の態度を取る夫の主張が平行線をたどり、予想外に長引きました。調停期間中に、夫が妻の居所を探し回ることは止めさせることに成功。これが、夫が諦めるきっかけとなり、最終的に、離婚することができました。

十数年後、仕事先で、彼女の子どもにバッタリと会いました。あの時はあどけなかった少年が、立派な高校生になっていました。

「その後、母は再婚して今は幸せに暮らしています」――目を潤ませながら、嬉しそうに話す彼の顔を今でもハッキリと覚えています。弁護士としてかけがえのない経験でした。

1988年 日弁連委託
昇格と出向

最初のころは、おびただしい数の依頼事件を手がけました。4年目のころ、パートナーへと昇格。さらに3年後には、日本弁護士連合会に出向しました。その中で感じたことは、庶民の生活実態に見合う法律を政治家が作るべきであり、さらに、一般の人々に行政が率先して「法律教育」を行うべきだということでした。

人生最大の転機

「衆議院に立候補しないか?」
日弁連へ出向した直後の話は、まさに青天の霹靂でした。公明党から衆議院に立候補してほしいという要請がきたのです。私は、想定外の出来事に衝撃を受けます。即決出来ない4つのハードル。そして背中を押した妻の一言。私は立候補への決意を固めます。

第一に、私自身、「政治家」という“人種”を好まないことにあります。そういった感情があったからか、人生の選択肢にありませんでした。

第二に、妻のことです。婚約中に「まさか政治家にはならないですよね」と冗談めかして言われました。妻も、「政治家」に対する印象が私と似ていました。

第三に、出向したばかりの日弁連調査室のことです。法律家として期待してくれ、呼んでいただいたにもかかわらず、すぐに辞めなければなりません。

第四に、法律事務所のことがありました。弁護士として育成し、パートナーにまでしていただいたにもかかわらず、何の恩返しもせずに辞めることは、義理を欠くことになります。

これらのハードルを越えて、私が立候補を決断するに至った理由は、一つに政界の腐敗構造における強い怒りがあったからです。当時、リクルート事件が起き、日本の政治はどろどろに腐った末期症状でした。そうした状況を放置できないという思いとともに、司法界での限界を感じ、立法や行政に期待していたということも、もう一つの理由です。

関係各所に事情を説明して理解を得た上で、私は立候補への決意を固めました。その後、妻が言ってくれた一言に強く励まされました。

「弁護士として生きるも一生。政治家として生きるも一生。人生は短いのだから悔いのない生き方をしてください」

政治家として

1990年 衆議院議員
衆議院議員に初当選

東京10区(足立・葛飾・江戸川)から立候補することになり、ミニ集会などこまめに住民の皆様との交流を深めていきました。定数5をめぐって8人が争う激戦でしたが、支持者の皆様の懸命な応援のおかげで、第3位で当選することができました。37歳の時でした。

1991
地雷除去支援

1991年7月、カンボジアを訪問した際、地雷で手足を失った子どもたちと出会い、胸がしめつけられる思いに駆られました。現地の話を聞くにつけ、「本当に困っている人たちを支える日本の国際貢献でなければならない」と強く実感しました。その時から政府、民間、ボランティア団体も含めた支援活動を開始したのです。

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1996
訪問教育を拡大

重い障がいや病気で養護学校に通えない子どもたちに、養護学校の先生が家庭訪問して教育を行う「訪問教育」制度。しかし、その対象は小中学生まででした。 「どんな子にも教育を受けさせてあげたいんです!」――音弘志「訪問教育親の会」代表の胸をつく言葉。脳裏に浮かんだ母の思い出。実現に動き始めました。

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2002年 参議院議員
離島振興支援:八丈小島の漁場とヤギを救え!

「ヤギが漁業に深刻な被害を及ぼしている!」
八丈島町議からの報告に、はじめは耳を疑いました。そこには、離島ならではの深刻な問題があったのです。

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2006
改正官製談合防止法の成立をリード

2006年、旧成田空港公団や防衛施設庁等、官製談合事件が相次いで勃発。党のワーキングチーム顧問として、談合に関与した公務員や特定法人職員などに対する罰則規定を盛り込んだ「改正官製談合防止法」の成立をリードしました。

2009年 公明党代表
公明党代表に就任

2009年9月、公明党の代表に就任。党の再建へ、率先して現場を走り、第一線の声を伺おうと、全国47都道府県を回りました。

2011
震災復旧・復興支援

2011年3月11日に起こった未曾有の大震災。当時、民主党を中心とした政府・与党は、的確な手を打てずにいました。実際に現場を見、被災者の話を直接聞くにつけ、いてもたってもいられず、復旧・復興に全力をあげる旨、政府に伝えました。
震災直後からの半年で、党が政府に対して行った復旧・復興に関する政策提言と申し入れは16回766項目。2011年に成立した議員立法は31本を数えます。

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2012
持続可能な社会保障制度の構築へ議論をリード

「社会保障と税の一体改革」をめぐる民主、自民両党の議論に公明党も参画。社会保障を置き去りにした増税先行、景気回復や低所得者に配慮しない安易な増税に歯止めを掛けるためです。野党の立場でしたが、3党協議を通じて、社会保障の具体案を明確に示すことを強く主張。最終的には、医療、介護、年金に加えて「子育て支援」にも消費税収が充てられることになりました。また、3党合意の中に、低所得者対策の選択肢の一つとして複数税率(軽減税率)を盛り込ませました。

国民の命を守る「防災・減災ニューディール」を提唱

東日本大震災で得た教訓を踏まえ、国民の命を守る「防災・減災ニューディール」を掲げ、党独自で推進基本法案(骨子案)を発表しました。

衆院選で政権交代。自公連立政権が復活

「幼児教育の無償化」が政権合意に明記

自公連立政権合意に「幼児教育の無償化への取り組み」を盛り込ませたことで、無償化の対象を低所得のひとり親世帯や多子世帯の一部などへと拡大させていく流れができました。

2013
日中関係改善へ対話の門開く

「平和の党」の代表として、対話外交をリード。日中関係が冷え込んだ時期に、習近平国家主席ら中国各界の首脳と会談を重ね、関係改善を確かな軌道に乗せました。

防災・減災対策が加速化

「防災・減災ニューディール」の考え方を反映した「国土強靱化基本法」が国会で成立。この法律によって、大規模災害から国民の命を守り、被害を最小限に抑える国・地域づくりが大きく前進しています。

2015
「平和安全法制」成立

国民の生命と安全を守るために隙間のない安全保障体制をつくる「平和安全法制」の関連法が成立。日本を取り巻く厳しい安全保障環境に適切に対応するため、日米同盟の信頼性を高め、その抑止力を高め、国際社会の安定に貢献する一方で、専守防衛という憲法の基本を外さないよう歯止めをかけることができました。

2016
党中南米訪問団として、キューバ、コロンビア、パナマを歴訪

日系人社会の存在や資源確保、物流などで日本との結び付きが非常に強い中南米で、各国の政府首脳と対話。地域の平和と安定、日本との関係強化に向けた重要な布石を打つことができました。

2017
私立高校授業料の実質無償化を首相に直談判 実現への突破口開く

党首討論会の席上、東京都で先行して実現した私立高校授業料の無償化を全国にも広げるよう、安倍首相に直談判。これに対し、首相が「検討したい」と明言。実現への突破口が開かれ、その後政府は私立高校授業料の実質無償化を2020年度から始めると発表しました。

「全世代型社会保障」の構築へ

衆院選後の自公連立政権合意に、高齢者も若者も安心して暮らし、活躍できる「全世代型社会保障」の構築を明記

2018
「100万人訪問・調査」運動の先頭に

公明党の全議員が地域の最前線を歩き、「子育て」「介護」「中小企業」「防災・減災」の四つをテーマにアンケートを行いました。調査結果を受け、教育費の負担軽減や、認知症施策を総合的に推進する基本法の制定、中小企業支援策の周知徹底を進めていきます。

「防災・減災・復興」を政治の主流に

近年、災害が激甚化・頻発化し、今後も巨大地震の発生が指摘されています。自然災害が「人間の安全保障」への脅威となってきたことを踏まえ、党全国大会で、「防災・減災・復興」を政治の主流に押し上げ、「命と生活の安全保障」を進めていくことを発表しました。

大規模災害の復旧・復興を加速化

大阪府北部地震、西日本豪雨、台風21号、24号、北海道胆振東部地震などの災害復旧・復興へ、現地調査から被災者の要望を聞き取った声を基に政府に緊急要請。こうした声を受け、政府は2018年度第1次補正予算を編成。早期復旧・復興に向けた費用や危険なブロック塀対策などを進める内容が盛り込まれました。

学校にエアコン設置を促進

〝災害級〟とも言われる夏場の猛暑。熱中症から子どもたちを守るため、2018年度第1次補正予算に、全ての公立小中学校の普通教室にエアコンを設置するための費用を計上させました。すでに普通教室へのエアコン設置が進んでいる東京都では、体育館にエアコンを設置するための費用を盛り込んだ補正予算を編成し、成立しました。