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ラジオNIKKEI「私の原点・視点」 放送内容 要旨

2020.07.30

先日放送・配信されましたラジオNIKKEI「私の原点・視点」の要旨を記載いたします。(敬称略)

葉 千栄(以下、葉) お生れはどちらですか?

山口)生まれは現在のひたちなか市ですが、生まれてすぐに父親の仕事の都合で日立市に引っ越しました。高校卒業までの約18年間、日立市で過ごしました。

葉)どのような幼少期でしたか?

山口)父親が気象庁の技官でしたが、日立市からの要請で新しく設置された「天気相談所」の初代所長に採用していただきました。そこは市民にローカルな気象サービスをお届けする、農業をやっている人にはそれ向きのもの、漁業をやっている人には海や台風などの気象情報、また工場をやっている人には煙がどうたなびくかなどという情報。また一般の市民には、旅行に行くから、その場所はお天気どうですか、海外に出張に行く人にとっては世界中あの国のどこはどういう天候ですかという、そんなサービスを市民にしていたんです。

葉)「天気相談所」は国の機関ではないのですか?

山口)法律の改正で、気象庁の許可があれば民間や自治体も行えるようになり、日立市はその許可を得た。日本でも最も歴史ある、最も早い時期から気象サービスをやった自治体なんです。

葉)その当時、まだ気象予報士という国家資格はまだなかった時代ですか?

山口)まだ気象予報士という国家資格はありませんでした。

葉)単なる雨や晴れといった天気予報だけでなく、その周辺の工場やあるいは風向なども?

山口)そうです。そういう気象の情報をいろんな産業に、どう生かすべきか。あるいは災害のために防災対策をどうするか。また日本はちょうどそのころ高度経済成長の時代ですから、公害問題、環境の保全の問題ということで、たとえば川が工場排液で汚れる。魚や生物が死滅する。それをどう復元するかとかですね。あるいはセメントの工場から灰が降る。それが一般の民家の屋根に降って屋根を壊してしまう。そこをどう防止する設備を作って、また被害を与えた人に補償をするか。またそういうことを防止する条例を市で作って、ルールに則って環境を保全していく。そんな幅広い仕事をしていましたね。

葉)少年時代、観測所などには行きましたか?

山口)ええ。父親や職場の方に連れて行ってもらって、市役所の中に本拠地がありますけれども、観測所は色んなところにあるんですね。特に市内の一番高い山の頂上の観測所にも登って連れて行ってもらったことがありました。その観測所、測候所には常に駐在する観測員がいまして、もう日夜、風や雨、空の模様等、計測してデータを集めている。そういうことを基にしてローカルな緻密な気象観測をやるわけです。

葉)人工衛星も写真とかを送ってくるようなこともなく、まさに人による観測で?

山口)目で観測することもありますし、あと百葉箱も使い、湿度や気温を測る。それを毎日、データを集めたりということはありましたね。思い出深いのは、台風がくるときなどはもう徹夜です。父親とそのスタッフは徹夜で泊まり込んで、その情報を集め、また農家や漁船にどんどん情報を送るわけですね。そうやって人々の仕事と命さえも預かるような大事な仕事だったと、子どもながらに思いました。徹夜したときは台風明けに母親が「弁当を職場に届けてきなさい」「持っていってあげなさい」と。大きな風呂敷に弁当箱を何段も重ねて、職員の方々の分も持って父親の職場に朝届けに行ったこともあります。そんな父親の仕事ぶり、市民の仕事、生活、地域の経済、そういうことに責任を持ってやっている、そういう姿にある意味での尊敬を感じましたね。

葉)お父様の影響で、小さい時は理系が好きでしたか?

山口)父親は理系の出身ですが、私自身は文科系に進みました。

葉)小さい時の好きな本は?

山口)好きな本ですか?新田次郎さんという有名な作家がいます。この新田次郎さんは気象庁のOBでもありまして、父親と同じ職場の出身ということになります。その新田次郎さんを講演会に日立市がお招きしたんですね。父親が楽屋裏で、実は日立市にはこういう歴史がありますと紹介をした。それは、日立市はもともとは銅の鉱山として発展した街で、銅の精錬をするときに亜硫酸ガスを含んだ煙が出るわけです。それが地上にきて、たとえば森林、あるいは畑を荒らして枯らしてしまうわけです。そういう公害が出たわけですね。そして、煙害と戦う町の歴史がありました。農家は企業、鉱山に対して「補償をしてくれ」と。また「被害が出ないようにしてくれ」と要求を突きつけました。企業の方は地元の人たちにつらい思いをさせて企業活動は成り立たないと。非常に先見の明がありました。ですから補償はきちんとやって、それ以上、危害が出ないようにどういう技術を作るべきかということで、当時、世界で一番高い煙突を立てたんです。

葉)世界一ですか?

山口)世界一でした、当時。1911年から13年ごろの話です。その世界一の煙突、高い煙突から出た煙は地上に降りないで、風に乗って太平洋の海の彼方に散っていく。ですから、被害をもたらさないという解決策をとったんですね。で、ここにはやはり企業を経営する側と、また農民が単に企業を追及する、企業に反抗するというスタイルではなくて、農民の側にもまとめ役のリーダーがいました。このリーダーは旧制第一高等学校、いまの東京大学ですね。東京大学に合格しながら進学をあきらめて、その地域の農民の方々に請われて、リーダーとして企業と交渉する、そういう働きをした人がいたんですね。そうしたいわば企業と農民が公害の解決という同じ方向を向いて努力をした。そういう歴史があるということを新田次郎さんに紹介して。

葉)お父様が新田次郎さんにこの歴史を伝えたんですか?

山口)ええ。もう新田さんはそれに大変強い関心を持って、「じゃあ何か資料があったら集めて貸してください」、「当時のことを覚えている人がいたら紹介してください」と言うので、父親と一緒に色んな人を訪ねたり、あるいは資料をよく読んでいただいて、それを小説にしたのが『ある町の高い煙突』というタイトルの小説でした。昭和43年のことです。最初は週刊誌に連載をしたんですが、翌年、単行本にして文芸春秋社から出版されました。それがその年の高校生の読書感想文コンクールの課題図書に選定されたんですね。ベストセラーになりました。私も高校生でしたが、それを読んで感想文を書いた覚えがあります。

葉)その小説の中にお父様も登場されました?

山口)もちろん父親とは時代が違いますけれども、そのあとがきに、「この小説を書かないかかと勧めてくれたのは、日立市の天気相談所所長の山口秀夫氏であった」と紹介してくださいました。この小説をもとに昨年、映画化されまして、その映画が全国で上映されました。小説の書かれた時代は高度成長期、公害問題が全国でいろいろあった時代です。時を経て日本はかなり技術的にも、また国民の理解も進みました。そこで改めて、この企業と市民が協力して課題を乗り越える。話し合いを尽くして課題を乗り越える。そういう教訓を現代に紹介する映画になったんですね。

葉)この小説をまだ読んだことがありませんが、さっそく読みたくなりました。もし可能なら中国語に翻訳したいですね。

山口)それはぜひ。

葉)日本では過去のことかもしれませんが、中国ではまだまだ現在進行形の状況です。

山口)世界には開発途上の国々はたくさんあります。しかし開発の途上で、環境を破壊する、住民を苦しめる。そういう被害が出てから後で手当てをするというのでは、私は失われた環境を取り戻すのは時間がかかる。また人々の健康も損ない、場合によっては死に至るという結果ももたらすわけですね。ですから開発するときには、きちんとそういう被害を与えないような対策を講じて、一緒に進める。こういう姿勢が国にも政府にも、企業にも必要ではないかと思います。

葉)アジア共通の歩みとして、日本が参考になるものがすごく多いですね。韓国にとっても、東南アジアの皆さんにとっても。

山口)そうですね。中国のリーダーの方々、習近平国家主席とお会いしたときも、日本の高度経済成長はプラスの部分だけではなくて、マイナスの部分もありましたと。たとえば公害の問題ですということで、ふるさとの苦しんだ歴史と解決した歴史を簡単にお伝えしたことがあります。うなづいて聞いてくださいました。

葉)高校時代でこの小説を読まれて、だけどプロフィールを拝見して東京大学の法学部に進学されましたが、そのときすでに将来、弁護士になろうと、やはり市民側に立って色々と頑張ろうと?

山口)大学に入るときは最初から弁護士になろうとは思っていませんでした。高校時代は東京オリンピックや万国博覧会などが行われて、大変世界に関心を持ちました。ですから、当時のテレビの番組ですと、NHKの『海外特派員報告』。これは欠かさず見てましたね。世界各地のNHKの特派員が現地の模様を映像で解説する、そういう番組が大好きでした。ですから日本だけではなくて、世界を舞台に何か仕事をしたいなと思ってたんです。しかし大学に入ったときは大学紛争、安田講堂事件というのがありまして、私の入った年は半年間、授業がありませんでした。その半年間、授業がなしという荒れた大学の姿を見て、海外もいいけれども、やはり自分の国の足元を立て直さなきゃいけないと。しかし一人で限りがある。何かこの世の中の役に立つ、何か技術や知識を身に着けようと。それで司法試験を受けようという気持ちになったんです。

葉)大学4年間で、勉強以外はサークルとかされましたか?

山口)大学の時はサークルよりも勉強と遊びと(笑)。むしろ中学、高校の時のほうがそういうことは一生懸命やりました。ブラスバンドをやっていました。トロンボーンを吹いてたんです。

葉)中学、高校の6年間?

山口)中学の3年間打ち込みました。高校では1年、半年くらい仲間とやりましたけれども、いい思い出です。なかなか狭い室内や居住空間では吹く機会がないですから、せめてマウスピースだけでもと思って、大事にいまでも持っています。やっぱりあの頃はブラスバンドの練習、またコンクールなどに出るために集中してましたね。お盆と正月くらいしか休みがなくて、しかし仲間とそれに打ち込む。地域のお祭りのイベントがあればそれに参加をして、水戸市内をパレードで行進したこともあります。メジャーを振って、ブラスバンドの列をなして、目抜き通りを更新したこともいい思い出のひとつです。

葉)貴重なお話ありがとうございました。もし可能なら、この続きを次回また聞かせていただきたいと思います。今度は、大学時代のお話、またいつどういうきっかけで政界に出馬することを考えたのか、ぜひ教えていただきたいと思います。

山口)分かりました。

葉)今日はどうもありがとうございました。

山口)ありがとうございました。

 

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