小笠原の課題を探る視察
2019.02.21
小笠原村の課題を探る視察~遥か南洋の島々~
島民が住む父島列島と母島列島をはじめ、硫黄島や日本最南端に位置する沖ノ鳥島、最東端の南鳥島など30余の島々からなる小笠原諸島。太平洋に浮かぶその領域は、わが国の経済水域の実に3分の1を占めます。
戦時中には島民7000人が強制疎開させられ、硫黄島の激戦では2万人が戦死しました。23年間の占領時代を経て、沖縄返還の4年前(1968年)に、東京都小笠原村として日本に復帰しました。
しかし、同じ外海離島の沖縄と比べ、小笠原の歴史や島民の暮らしが語られる機会は極めて少ない状態でした。本土から1000キロを隔てた小笠原の現状と課題を探るため、山口なつおは現地視察を行ってまいりました。
「世界のどこよりも遠い」国内
小笠原への交通手段は、平均6日に1便就航の「おがさわら丸」による船便のみです。東京・品川の竹芝桟橋から父島二見港までを25時間30分で結びます。東京から地球の反対側のブラジル・サンパウロまでのフライト時間(ニューヨークでの乗り換え時間含む)が約22時間半なので、小笠原は世界のどこよりも遠い”国内”となります。
返還以来の島民の悲願である航空路実現は、91年に運輸省(当時)の第6次空港整備5カ年計画で予定事業に採択されました。東京都は、中型旅客機が発着できる1800メートル級の空港を、父島の北側にある無人島兄島に建設する計画を決めました。しかし、環境庁(当時)の反対で計画は立ち消え、予定地白紙のまま、第7次空港整備に継続事業として採択されたのです。
98年、都はその後の調査・検討を踏まえ、父島の時雨山に建設を決定。予定通り進めば2002年に着工のはずでしたが、2001年秋に、東京都は再び建設を白紙撤回し、「新たな航空路案を検討する」と発表したのです。自然環境へ与える影響の大きさと事業費の増加がその理由でした。
宮澤昭一村長(当時)が2001年の11月14日に出した声明文には、「強制疎開から本土の生活を余儀なくされ、返還後、島の復興に携わった先人たちは、空港建設のつち音さえ聞かずこの世を去った。(中略)返還から空港建設を村民に約束し、33年間も調査検討を行った結論が、空港建設予定地の白紙撤回では、あまりにも島民を軽んじている。東京都はいままで何を検討してきたのか」と島民の悲痛の声が綴られておりました。2度にわたる建設計画のとん挫が島民に与えた落胆は大きかったのです。
空港開港実現を切望する声が相次ぐ
2002年、山口なつおは公明党東京都本部として調査団を結成し、小笠原村を視察のために訪問しました。調査団は、空港建設検討地の視察や、へき地医療、住宅事情など、島民生活を精力的に調査・視察しました。
村民代表や村議との懇談、島で初めて時局講演会を開催するなど、積極的な視察を行いました。漁協や農協、商工会、観光協会、老人団体や福祉団体、さらに教育関係者らとの懇談の席では、交通アクセスをめぐる「飛行場建設」と「医療・福祉」に焦点が集まりました。出席したほぼ全員が、航空路は緊急医療のためにはもちろん、産業振興や村の自立発展に不可欠だと語っていたのが印象的でした。
「これまで飛行場実現一本で頑張ってきたが、建設撤回で島内の事業計画もすべて無に帰した」と参加者の一人は話していました。また、各団体代表からも「自然と共生した空港実現は不可欠」「子どもたちの視野を広げるためにも交通アクセス問題が課題」「最期をここで迎えたいが、最終的には都内の病院に搬送されてしまう」「親の死に目に会えない島といわれている」など、交通アクセスの不便さがもたらす島の弊害について、意見・要望が相次いで寄せられたのです。
山口なつおは、現地視察を通して改めて離島を取巻く課題の多さを垣間見ると同時に、小笠原振興は、より喫緊の課題として取組まなければならない仕事であると実感しました。